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人はなぜ生きるのか。

生きる為に生きている。

根本的には種の保存のためだけ、というのが理由でしょう。

理由なんてなくても、多くの生物は生きています。

理由を求めているのは人間だけです。



ある人はこう言いました。

「私は生きている理由を見付けるために生きている」

しかし、もし理由を見付けたらどうなるのでしょうか。

そこで生きる意味を喪失するのでしょうか。

それとも理由を見付けたからこそ生きていられるのでしょうか。

いずれにせよ、上記理由の場合ですと理由を見付けたら「生きる理由」が変更されますね。

そもそも生きる理由なんて考えている時点で、おかしな話なんですがね。

むしろそういう風に考えるように至った思考の原因を探る方がよほどいいのでは?

つまるところ、生きる理由を自分なりに知っている人は

生きる理由とは? なんて考えないですし、問わないです。

人それぞれですよね。

ある人は快楽のために生きているでしょうし

ある人は何か趣味に没頭するために生きているでしょう

根本的には生きるために生きているのですから

むしろ上記理由は目的と手段をはき違えていると言えなくもないですが。

たとえるならば、食べることは生きることに直結するわけですが

食べることに楽しみを見出すということ、これすなわち目的と手段が入れ替わってますよね。

こんな感じ。

もっとも、生きるために生きる、というのは思考レベルが低い生物しか納得できない理由と思われます。

複雑な存在だからこそ、理由を求めるんですよね。

人は複雑な生命体です。

複雑だからこそ弱い。単純であれば強いのです。

ゆえに何をするにしても意味を見出せないと、動くのが辛いですし、まず間違いなく動こうとしません。

勉強みたいな感じですよね。

勉強も、小さい子はやりたがりません。

理由が解りませんし、ただの苦痛を伴う作業にしか映らないからです。

さて、上記例から、生きる意味が少し私の頭に浮かびました。

それを言いましょう。

あなたは平仮名を習っている時、それを役に立つなんて思いましたか?

思っていませんよね。

どうしてこんなものを学ばなくてはならないのか。

そう思っていたはずです。

がしかし、今はどうでしょう?

文字を習得し、それが必要不可欠だと思いますよね?

つまり今どうしてそれをしているのか、解らなくても、将来的にそれが有意義なものへと

形を変えるのです。

とするならば、今生きている意味が解らなくても、きっと将来的に

今生きていること、過去生きてきたことが必要不可欠になる、

そんな将来が見えてくるはずです。

そして、そんな未来のために私達は生きているのだ、


と書きながら色々と考えてみたまかでした。


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